廃線跡をたどる Part 1
by トワイライトエクスプレス

 鉄道MLの皆さんこんにちは。広島のトワイライトエクスプレスでございます。大変長らくお待たせ致しました、去る1月14日の晩から行ってまいりました北海道への鉄/旅の報告をさせて頂きます。暫くのお付き合い、宜しくお願い致します。

〜白銀の世界を行く(1) 寂しい旅立ち〜

 今回の目的は3月で廃止になる北海道ちほく高原鉄道へのお名残乗車と、埋もれた轍、廃線跡を辿るという目的で、旧広尾線(様似〜広尾)と、旧深名線(深川〜名寄)迄をバスで辿り、更に北上した後、鉄道とは関係ないが、オロロン街道をバスで留萌迄辿るというルートである。
 1月14日(土)、終電迄指折り数えるほど程となった広島駅は土曜日の晩というのに閑散としていた。今回初日の塒に決めたのは、寝台特急「富士」、今では広島に止まる唯一の寝台車となっている。「富士」は北海道へは全く縁もゆかりもないが、この列車で静岡迄行き、そこから新幹線へ乗り継ぎ、続いてはやて+スーパー白鳥+北斗という列車を乗り継げば様似迄最もスムーズに繋がる事が判明したので、あえてこの「富士」を選択した。
 かつて山陽路の寝台特急といえば、寝台特急の代名詞「あさかぜ」を筆頭にはやぶさ、富士、みずほ、そしてしんがりはさくらに至る迄、広島駅を賑わせていたが、それがいつしかこの「はやぶさ・富士」のペアのみになっていた。到着する4番線の上には「はやぶさ・富士」と記載された垂れ幕がポツンと寂しそうに揺れていた。塒となる部屋が3号車だった為、ホームの端の方迄歩くが、普段はこんな端迄歩いた事がない。編成の長さを伺わせていた。1番線では岩国行きの普通電車が出番を待つ以外は、どのホームももぬけの殻である。
 定刻の22:35、EF66を頭に14系客車が後へ続く。重圧のある音の後にかすかにブレーキの音をさせながら客車が時より「ゴトン」と音を鳴らして止まる姿は昔と変わらない。果たしてこの日、広島からどのぐらいの乗車があったのかは良く分らないが、これが人気列車であればたちまちフラッシュで出迎えがあるのだろうが、何とも寂しい旅立ちだ。3号車11番(個室)を探すのに一苦労したのは言う迄もない。車内は全て白で統一されており、その番号も黒ではなく、白だったのだ。触れて初めて浮き上がっていたのが分ったが、何とも寂し泣かせな色合いだ。窓越しに見る駅のホームは何となく新鮮味が増してみえた。「ゴトン」という衝撃ど同時にスルスルと滑るように発車するのは客車独特の味わいでもあるが、相変わらず加速はいまいちだ。広島運転所には電気を付けたままの車両達が疲れを癒していた。天神川駅を境に町の灯りは遠のき、半分眠りに入った住宅地への灯りと変わっていった。
 落ち着いたところで今回の一番見てみたかった、一つの列車で同時にヘッドマークが見える場所へと向かう。各雑誌社はこのマークを必ず撮影してその紙面に記載している。いう迄もないがこの列車ははやぶさと富士のペア。手前東京寄りがはやぶさ、その後に富士が連結されているという格好だ。車両は熊本総合運転所所属の24系+14系で、貫通扉の所へそれぞれ「はやぶさ」「富士」のテールマークを確認する事が出来た。しかし翌日はこの編成が逆になり、今夜僕が乗っている富士がはやぶさになり、その後が富士となる、つまり編成が逆になる訳だ、「はやぶさは常に富士山をしょって走る」と思えば覚え易い。一昔前迄はこのような1つの列車で2つのテールマークを見る事は考えても見なかったが、今ではこの他、「あかつき・なは」、マークこそ無いが「サンライズ出雲・瀬戸」が該当する。
 ふと車窓に目をやれば瀬野側の川面に宝石を散りばめたような町の灯りが点在しており、間もなくセノハチに差し掛かる所だった。喉が乾いたので自動販売機に行くが、ミネラルウォーターは全て売り切れ。たまたま通りかかった車掌に尋ねて見ると、何とあの昔0系でよく目にした紙コップ(パックと言った方が無難)に水を入れる方式がまだ存在していた。飲みにくかったが冷たくて美味しかった。自室へ戻って灯りを落として見ると車窓も既に寝静まったようで、灯りすら見えなかった。
 どのぐらい寝たのか、ふと車窓を見て見るとやけに開けていた。しかし灯りは見当たらない。運転停車したので確認すると遠くで気動車らしい車両が見えたので、時間的からみて姫路だろう。この付近を日付が変わるぐらいに通過するサンライズ出雲・瀬戸ではまだまだ車窓には煌びやかなネオンで彩られるのだが、流石にもうそれは見えなかった。4時過ぎに米原でも運転停車。走っているはずのない新幹線ホームにはご丁寧にも電気がついていた。それにしても月が奇麗だった。
 いつの間にか月が朝日に変わっており、列車は浜松へ到着するところだった。そでに朝一番となる313系や115系は身支度を整えているようだった。通路の電気は既に明るくなっており、この列車の車内もようやく目覚めたようだった。静岡駅でこの列車を降りて見送るが、実際は先回りするべく、新幹線ホームへ上がる。ホームへ上がって7:47発のひかり432号を待つ間にも、通過線を2本の列車が通過していった。東海道の過密ダイヤを目の当たりにした。富士を見送った後は新幹線から「Mt,Fuji」をしっかりと拝んだ。


〜白銀の世界を行く(2) 順調に北上、と思ったが〜

 東京駅へは定刻の8時43分に到着した。しかしその余韻に浸っている時間はない。はやて9号は8時56分発、12月10日のダイヤ改正から東北・上越新幹線ホームの使用の区別がなくなったという事で、その確認をするべく足早にホームへと向かう。実はこの初日の乗り継時間で、最も長いのが静岡の20分、後は5〜15分の乗り継ぎ時間となる。しかし大阪から銀河へ乗った場合、新大阪で30分、苫小牧で40分と極端に空く為と、久々に広島から寝台車で旅立ちたかったという理由でこのプランを立てた。東北新幹線はやては22番線からの発車で、今回用意されていたのはE2系1000番台。ワイドの窓ガラスにセンターピラーが付いたものだった。
車内もMaxと良く似ていることから、多分足回り(台車)はMaxの物で、ATC-Dに改造したものと判断する。
 定刻に東京駅を出発、山手線・京浜東北線の向こうに神田へ向かって着陸していく中央線が見えた。新幹線もそれ程スピードが出ていない事から、時刻が合えばこれらの3路線の競争が見られるかなと期待はしていたがそれはなかった。神田を過ぎるとこちらも着陸態勢に入る。それ迄下を走っていた線路が目の前になったと思うとたちまち頭上になり、御徒町の手前でトンネルへ入った。タッチ&ゴーのような格好で上野駅を出発すると、今度は進行方向右手に埼京線が現れた。流石にここ迄来ると新幹線もフルスピードではないが、かなり加速している。幾ら競争相手がいたとしても叶わない。大宮駅ではかなりの乗客があるのかなと思いきや、それ程車内は込まなかった。いよいよ新幹線も本領発揮、あっという間に郊外へ出た。宇都宮をフルスピードで通過し、那須塩原を通過した辺りから、木陰にチラホラと雪が見え始めた。それがトンネルを抜ける毎にだんだん多くなり、仙台へ近付くと平地にもうっすら積もっている状態だった。今日の車内はそれ程込んでなく、僕の隣の席はずっと空いていた。
岩手県内に入ると流石に雪煙を上げて走るようになり、北上して来たんだという実感がわいて来る。昨年12月から雪が多いとは聞いていたが、それを目の当たりにした。盛岡もかなりの積雪量だった。ここでスピードが落ちないところが流石東北新幹線。各種長大トンネルもあっという間にクリアして、定刻の12時3分に八戸に着いた。
 乗り継いだ列車はスーパー白鳥9号、はやてと数字を合わせており、首都圏から北海道への速達タイプというのを思わせる。リレーでいうバトンのようなものだ。乗った列車は途中吉岡海底駅にも停車するが、下車出来ない旨も伝えられた。ふと思い起こせば2年前の3月、この青函トンネルの吉岡海底から竜飛海底迄の23.5kmを歩いたことを思い出す。そして偶然にもその時も行きの工程で号数こそ違うものの、同じ時刻の列車に乗っている。これは先の12月10日のダイヤ改正ではやてが1本増便された為に、番号のみ変わったものだ。その青函トンネルへは午後2時過ぎに突入。吉岡海底は2時20分に到着した。ホームに人影は無かった。2時半に北海道側へ顔を出し、後は江差線をゆっくりと走る。流石に8回目ともなると見慣れた景色だ。
 函館からは北斗15号、15時24分発、雪の深さは駅の看板の下半分が覆いかぶさる程だ。個人的にはスーパー北斗の方が好きなのだが、時刻表で調べて見ると、今回のようにスーパー白鳥から乗り継いだ場合は北斗に、白鳥から乗り継いだ場合はスーパー北斗への接続となっている。これをお互いにスーパーに合わせてくれればもう少し目的地迄早く行けそうなのだろうけど、それは視野に入れて考えないのだろうか。
 白一色の大沼公園駅で積み込んだという大沼団子も加わり、ワゴンサービスも品数豊富だ。後は長万部でカニ飯の予約の案内もしていた。北海道の日暮れは早く、4時過ぎには既に暗くなり始めていた。乗客も入れ替わり立ち代り、そこそこあった。日曜日というのに何故かビジネスマンらしき姿もチラホラと見た。
 定刻の18時12分、苫小牧へ到着して、次の様似行き普通電車迄は5分、しかも階段を上り下りしての乗り換え、おまけに足元はツルツルと悪条件が見事に揃っている。急がなければと慎重ではあるが、その乗り場へ向かった。しかしそこに電車はいない。あれ?。まだ入線していないのかなと思い暫く待つが来るような気配はない。
ホームの端の方へちょこんと止まっているのかと見渡すが何処にもいない。まさかもう出発したのかとふと時計を見るがまだ出発迄3分ある。それにしても妙に改札口付近が賑やかだ。あわてて行って見ると、鵡川駅構内で信号トラブルがあった為本日は運休との事だ。たちまちパニックになる。しかし流石はJR北海道、途中の静内迄代行バス運行の知らせを受けてから、本来6時17分発の列車より12分遅れただけでスムーズに発車した。何だかこの信号トラブルでも予想していたかのような準備ぶりだ。しかしここはバスで、遅れは徐々に膨らんで来る。駅毎に迂回をする為だ。それにしても街灯1本も無い道を駆け抜けて行く。正に「未知の世界」だ。列車だと後少しで終点様似に着く頃だろう。9時過ぎにようやく静内に到着した。夕食を予約していた為、ホテルに遅れる旨を伝えてすぐの接続の列車に乗り継いだ。学生らしい若者が数人乗る他はガラガラである。それにしても腹が減って減って、どうしょうもない、チョコレートを食べたかったが、ホテルでのご馳走に期待して……。しかしこの列車の筋は、首都圏だと簡単に出せないだろう。行き違う列車もなく、1時間半後に様似へ着いた。23時間半で行けるところを1時間遅れでの到着である。夕食はホタテやタラ、鮭の入った鍋物をはじめ、刺身、天ぷら、煮物等数々のおかず+ご飯でようやく空腹感を脱した。それにしても食堂の親父さん「お客さん、見覚えがあるなぁー」何て言ってくれた。このホテルは5年前に1度泊まったのみは全く連絡もしてなく、行っていなかったのに、何だか嬉しくなった。そして5年前の旅の思い出も蘇った。


〜白銀の世界を行く(3) 埋もれた轍 その1+ちょっととブレイク〜

 明けて16日(月)、5時過ぎに起床した。昨夜は約4時間、今日は5時間の睡眠と、その差は1時間だが妙に目覚めが良い。6時過ぎにホテルを出るが、前夜にバス停の場所を確認しようと思い食堂の親父さんに尋ねたところ、近いのに車で送って下さるとの事。頭が下がる思いだ。6時を過ぎて間もないのに北海道の朝は早い。既に東の空が白んでいた。どうやら今日は晴れのようだ。これから向かう広尾経由の帯広迄のコースは、旧広尾線の跡で、バスルートに変更されてもう日が長い。やって来たバスは何処にでも走ってそうな中央から乗って前から降りるという、普通の路線バスだ。出発して間もなく車窓に海が広がる。空中では月と太陽が交代するところである。進行方向右手には海、左手は山肌、その間を縫うように走って行く。落石防止用の窓がついたトンネルと、普通のトンネルが交互に現れる。月曜日の朝というのに乗客は愚か、渋滞すら全く無縁のようだ。半分ぐらい来たところでやっと町らしい町になり、襟裳に到着。ここは旧広尾線の駅舎らしい建物が残っていた。様似も含めてこの襟裳岬も例年ならば雪は少ない方なのだが、今年は昨年同様雪が多いと話す。しかし道路はキチンと整備されており、全く雪はない。再び左手に山肌、右手に海という風な景色が繰り返され、延々と続く。聞くところによると、この道路は黄金街道というそうだが、その名に相応しいような金色の朝日が海面に浮かんだ。そして乗客もそれ程集めることなく8時1分に広尾へ到着した。
 広尾からは約6分の待ち合わせで次の帯広行きへ接続となる。先程迄のバスはそそくさとその場を立ち去り、入れ替わるように帯広行きが到着した。2時間強という乗車時間だが、こちらも先程と同じタイプのバスだ。お客さんはさっきとは逆でかなりあったが、流石に立ち客迄はなかった。地元の高校生や年輩の方で、入れ替わり立ち代りである。名前の縁起が良いと言われている「幸福駅」、も通ったがあっという間の通過で、乗降客はなし。今度は海を背にしてひたすら真っ直ぐ走る。景色も開け、平地が続く。交通量はかなりあるものの渋滞にかかるといったような事はなかった。
 道路脇にはかなりの積雪があったが、流石に道路には全く雪がない。これだけ集客があるのならば、鉄道でも敷けばと思うのだが、やはり鉄道を建設するとメンテナンス等でコストがかかるのだろう。走る事2時間弱、帯広駅を目の前にして途中下車した。実は帯広に親戚がいて、帯広市内のスーパーの中のテナントでクレープ屋を経営しているという。連絡なしだがそこへ寄ってみようと考えたからだ。今回帯広で3時間半という、この旅でも最長の待ち時間があった為、急遽決断したのである。
 「ポスフール」という売り場面積約2万uという広い店内で、そのテナントを探すのは容易ではないが、たまたま近くにいた警備員らしき人に聞き、すぐに見つける事が出来た。出迎えてくれた時は何と腕まくりをして半袖のような格好。「寒くないんですか?」と訪ねたところ、「何、外へ出れば寒いさー。中は暖かいもんで、しかし今日は暖かくなるそうで、最高気温0度だよ」。いまいち理解に苦しんだ。確かに言われて見れば外は寒いが建物の中の暖房の利かせ方は違う。昨日のホテルでも、夜中に冷えるといけないからと思い、ストーブの設定温度を少々高めの24度に設定して寝たら、夜中に汗をかいてしまい、慌てて設定温度を下げたから、始めから建物全体に暖房がかかっているのだ。それでもの足りない方はストーブをどうぞということだそうだ。駅もそうだがこの建物の出入り口も全て二重になっており、寒さ対策は万全だ。逆に北海道の人達が東京や広島等、西の方に来ると「寒い」というらしい。それは家に少々すき間があってもそれに慣れており、そこが極寒の地に暮らす人と西の寒さには甘い人達の違いだろう。
 それにしても少し驚いたような感じであったが、妙に歓迎してくれた。偶然にもその日の朝食はチョコレート1つしか食べてなかった為、やっと食事らしい食事にありつけた。生クリームと苺が入ったクレープとコーヒーを頂き、店内を見てみよう。先ず1階はマクドナルド等のテナントやファミレス。それに靴売り場から食品売り場迄、2階は衣料品やゲームセンター、3階は理容店や歯医者、英会話教室ありと、生活用品は全て揃ってしまいそうだ。衣料品でいうと、西の方の感覚ではまだ0度以下だと真冬だから、真冬中心の物が売れるのかと思い聞いてみたら、0度になると既に春物も出て来るようで、店内には「ザ・バーゲン」の札が目立った。逆に僕の着ているコートを見て「よくこんな薄いコートで寒くないねぇー」何て言われてしまった。
食品売り場の惣菜は、お好み焼き等は流石になく、芋を中心とした物や、鮮魚売り場の刺身も鮭を中心に充実していた。広島では有名な牡蠣も置いてあったが、仕入れでは遠くても仙台で、たいがい厚岸や根室の方から仕入れるそうだ。帯広といえば名物は豚丼、近くでそれをご馳走になり再び鉄旅へ戻る。「道中食べなさい」と言い、ツナマヨネーズ入りのクレープとバナナチョコのクレープを頂き、帯広駅へ戻った。ここから再び、今回のテーマの「鉄/旅」の再開である。


〜白銀の世界を行く(4) 北海道ちほく高原鉄道へのお別れ〜

 今回用意された北海道ちほく高原鉄道の車両は、前回(5年前)乗車した時ど同様、前2両が池田行き、後1両がちほく高原鉄道経由の北見行きとなる。出発する30分前にはホームにおり、早々と乗車した。前回乗った時はまだ廃止の事は言われてはいなかったが、やはり時代の流れだろう。この情報を聞いたのは去年の事で、今回のお別れ乗車を決めたのだ。その後生き残りをかけて色々とイベントをしているという情報は入手していたものの、まさか廃止になるとは、我々鉄道ファンにしてみれば「訃報」だ。国鉄時代には池北線として活躍。その後国鉄が分割民営化した後は、北海道唯一の第三セクターとして活躍していた。その距離も140kmと、第三セクター路線では日本一の長さを誇っていた。しかしながら札幌・帯広から北見や網走へ行く場合、この路線を通った方が近道になる。鉄道雑誌等でも「古くて新しいバイパスルート」として、この路線を取り上げていたのを読んだ事がある。このバイパスルートとして生かす事は出来なかったのだろうかと思うと、少し寂しい。
 池田駅から根室線と分岐して素晴らしいスピードで駆け抜けて行く。横を平行する道路では、列車よりもスピード上げた車が追い抜いて行く。込み具合はまちまちで、1両編成だったが空席が目立つ。それでも途中の足寄や陸別といった主な駅ではそれなりの集客があった。

【写真説明】

直線部分が続く区間でありながら、それ程スピードも出さずに走って行く。
もう間もなく廃線になるので、まるでそれを惜しむかのようだ。

今日は1日快晴で、太陽が一日中見守っていてくれた。窓越しには車内の様子が伺えるようになって来た。目指す北見迄はもうすぐだ。小さなテールランプをひきずりながら最後迄力走した。気持ちばかりのネオンが車窓を撫でるように流れ、定刻の5時1分、北見へ到着した。「今迄有難う、だけど心の中では走り続ける」という気持ちを胸に列車を降りた。だだっ広い北見駅の端の方へ申し訳なさそうにちょこんと止まり、再び残務をこなすのだろう。


〜白銀の世界をゆく(5) 遠軽駅で見た妙な光景〜

 今夜の塒は旭川第Tホテルで、オホーツクで旭川迄向かうが、その前に悲劇は待ち受けていた。お名残乗車は果たしたのだが、その後食べた駅蕎麦が悪かったのか。急に腹に激痛が走った。しかし乗り継ぐ特急は後10分、考える間もなくトイレへ入り、何とかその場は逃れた。本当はここでカニ寿司を購入する予定だったが、そんな物には目もくれなかった。特急に乗れば悪魔のような眠気との戦い。心地よい揺れと暖房の効き具合がちょうど良い。外の極寒とは別世界だ。雪の高さはふと気付けば窓枠の高さ迄あった。曇った窓ガラス越しに見える積もった雪がこぼれる車内灯に反射して、ぼんやりと浮かび上がった。遠軽迄は町らしい町もなく、与えられた道を坦々と走っていた。うつろうつろしながら早くもなく、また遅くもない車輪が奏でるリズムに身を任せていると、遠軽到着の放送でふと気が付いた。反対側の窓を見て目を疑った。何と同じ型の特急がこのオホーツクと同じ方向へ走っている。「車で言う幅寄せか」。駅近くの車庫から出て来た回送列車と並んで駅のホームへ滑り込むという風景はたまにあるが、ここはそんなに列車の本数も多くない。方向幕には「網走」という字がチラリと見えた。そして我がオホーツク8号と同時に遠軽駅に到着した。ここで方向転換があるという事にふと気が付く。後から時刻表を見てその謎が解けた。
つまり網走から遠軽、遠軽から札幌へ向かう場合、線路がVの字になっている為、方向的には同じになる。それでさっき同じ方向へ向かっていたのは「オホーツク5号」(札幌15:16発)の列車で、遠軽に7時ちょうどに到着。3分発。我がオホーツク8号は7:02着、5分発。定刻通りだとこのような現象は見られないが、札幌からの列車が2分程度遅れていた為このような現象が起きた事になる。それにしても妙な光景だろう。遠軽駅で「間もなく、札幌行きの列車が来ます」という放送と「間もなく、網走行きの列車が来ます」という放送の後、普通ならば双方が逆の方向から来るのが当然だが、同じ方向から来て同じ方向へ戻って行く。何だか乗り間違えてしまいそうな、そんな印象も受けた。
 オホーツク8号は定刻に遠軽を発車し、再び峠へ挑む。石北本線で最長の石北トンネル(約4km)も、うつろな状態のまま通過、相変わらず空腹感はなかったからやはりまだ体調が戻ってないのだろう。それにしても夜行列車を思わせるような静けさの中、突然携帯が震えた。慌てて出ると何と、鉄/仲間だった。久し振りに言葉を発したような気がしたが、会話が弾んだ。山の中という事もあり、後からかけなおすとだけ言ってその場は切った。幾分元気が出て来た。少しばかり腹も減って来た。停車する駅以外は雪に埋もれており、駅としての機能を果たしているのだろうかと、ふとそんなバカげた事を思う。
 流石は北海道の特急で、定刻の8時59分、旭川へ到着した。気温はマイナス10度。小雪が舞っていた。吐息がSLから吐き出される蒸気のように白いという事は言うまでもない。和室の部屋へ落ち着き、ようやく遅い夕食となる。この日の夕食は帯広の親戚がくれたツナマヨネーズのクレープとおにぎり1つである。これで満腹感を覚えるのだから、やはりまだ本調子ではない。


〜白銀の世界を行く(6) 深川〜深川?〜

 流石に和室は寛げた。睡眠時間もこの旅では最長の7時間。今日の工程は深川迄行き、旧深名線を辿り名寄。その後宗谷本線にて幌延へ行き、オロロン街道を通るバスにて留萌、再び深川経由で札幌迄行くという工程だ。札幌へ到着する時刻は午後10時37分、ホテルへは11時頃の到着予定で、就寝は多分12時になるだろう。明日は7時に札幌を出る為起床は余裕を持って5時半とする。となると自然的に睡眠時間は5時間半となる。流石に長期になる旅の場合、眠れば眠る程目覚めが良い。体調もお陰様で何とか回復したが、まだ空腹感はない。
 チェックアウトを済ませて外に出ると相変わらず寒いし、雪も降っている。それどころか車道と歩道の区別もつかない程の積雪量だ。フロントの人は「いやー、8度ぐらいですよー」と言うが、これは氷点下の事で、この時期にプラスになる事がない為、わざわざ氷点下というのをつけないのだろうか。
 この日の一番手となるランナー「スーパーホワイトアロー札幌行き」は既に待機しており、ホームで入れ立てのコーヒーを販売していた。その分、車内販売はないとの旨を告げていた。深川迄なので自由席に座るが、それ程混雑はしていない。深川へは17分で到着。実は今日、この駅が基点となるのだ。雪は相変わらず降り続いていた。近くで雪かきをしていた作業員に「今日はバスは出るのですか」と聞くと笑いながら「定刻通りだよ」との事。
 やって来たバスは貸し切りバスのようなタイプで、しっかりと暖房が効いていた。行き先は幌加内行きと表示してあったが、幌加内からは名寄行きとなるそうだ。しかも運転手は交代なしに行くという。ここでふと気が付くが、歩道と車道の区別もつかない程の積雪なのにどの車もチェーンは装着していない。勿論冬用タイヤなのだが、チェーンは凍らない限りつけないという。北海道の雪は水分を含んでいない為サラサラしている。逆にこれが氷点下2〜3度が一番怖いという。それは中途半端な凍り方をする為水分を含み、それが凍って滑りやすくなるという。しかし北海道の自動車教習所では、わざとコースをアイスバーンのような状態にして、そこを走る訓練もあるらしい。乗客は僕と後地元の方と思われるおじさんが1人、後の方にちょこんと座っていた。積雪は1m20cmをゆうに超えるという。
 それでもバスは何気なしに走る。それどころか次々と後続の車が追い抜いて行く。若者はこのぐらいの雪だと直線コースならば100km/hは平気で出すという。途中からは吹雪きになるが、そのスピードは劣ることはなかった。

【写真説明】

廃線になった深名線跡の道中は、積雪1m20cm。この年は北海道以外の地域でも雪が多い年でした。当然北海道もそれに負けないぐらいの積雪量、生まれて初めて見る、正に「白銀の世界」でした。何も写っていないビデオテープでも見ているような感覚になりました。それでもバスは定刻通りの運行でした。

 幌加内バスターミナルで10分間のトイレ休憩を挟んで、再び出発。乗客は今度こそ僕1人となった。運転手は全てを話してくれた。普段は空気を運ぶ事も度々あるそうだ。そういう時は本当にコースが長く感じるそうだ。吹雪くと地元の人は出てこれなくて、天気が良い日にはチラホラと乗客があるそうだが、若者は全てマイカーになってしまい、バスは言わばお年寄りや足がない人の為だけのものだという。しかしながら途中の停留所からのお客さんの有無に期待して毎日車を走らすらしい。見事なハンドル裁きに思わず見とれる。途中には結構長いトンネルがあるが逆にこの内部の地面が濡れており、逆に怖いという。途中のバス停には「○○宅前」と命名されたものもあるが、これは一般の人の家をそのままバス停の名前にしたらしい。ここの地域は隣の家迄車で15〜20分というのがざらで、たまに乗客もあるらしい。吹雪いた晴れたりを繰り返しながら11時32分、定刻に名寄駅に着いた。
 ここから更に北上して幌延迄行くのだが、雪はますます深さをますばかり。それにも関わらず宗谷本線の線路を時として鹿が横切るらしく、運転士と作業員らしき人の話し声が聞こえた。「俺、引くの嫌だよー、ほらあそこ、たむろしてるよ」と言った次の瞬間、列車は急ブレーキをかけた。黒い鹿が線路を横切ったのだ。白に黒だったので、僕の視力でも確認することが出来た。

【写真説明】

雪煙を上げて特急サロベツがやって来た。昼間の最高気温もプラスになることの少ない宗谷本線沿線。白いベールに包まれるこの地域で、人は何を交わすのだろうか。

 3時14分、幌延駅へ到着した。バス迄は後1時間弱ある。駅のポスターには「南の楽園、沖縄へ行こう」と歌ったパンフがやけに多く目立つ。中でも目を引いたのは「1月19日出発で、幌延〜旭川→スーパー宗谷、旭川から東京を経由して沖縄へ行き、石垣島等を見学し、4泊して再び幌延へ舞い戻って来る」というもの。今日は1月17日、2日後に出発するのにまだポスターが張り出されているという事は、それだけ参加者がないのだろうか。冬場に地肌を見る事がない地域の人達にとって、沖縄はさぞ憧れの地だと思ったが、詳細はわからないまま。
 4時19分にバスが到着し、いよいよオロロン街道へと進む。雪も本降りとなり、たちまち何も写っていないビデオテープでも見ているかのようだ。正に「白銀の世界」そのものである。真っ直ぐな道に家一軒見当たらない。バスで流れていたラジオからは「道内の殆どの小・中学校で今日が始業式」というニュースが流れた。途中の羽幌から高校生がドッと乗って来るが「明日の体育はスキーだよねー」何ていう会話も聞かれた。日暮れ時の色合いがまたよくて、日が照ってないぶん、周りが全て青に変わり、それがだんだんと黒に染まって行くから何ともいえない夕暮れ時だった。
 バスにで走る事3時間半、留萌駅へ到着して、留萌線で再び深川へ戻るのだった。
いつしかお腹も減って、夕食にありつけたのは午後11時過ぎ、ホテルの部屋に入ってからだった。


〜白銀の世界を行く(7) 帰路で見た美しい夕日〜

 5時過ぎに目が覚めた。それど同時に今迄体験した事のない空腹感を覚えた。それもそのはず、昨日は体調は悪くはないものの、あまり食欲がなく、食事らしい食事をしていないのだった。朝は前夜に買ったおむすび1つ。昼は名寄駅でうどんを食べて、間食にきのこの山一箱。夜は11時頃天ぷら入り幕の内弁当1つ。最終日という事もあり、札幌駅で旅立ち迄の雰囲気を味わうべく、少し早めにホテルを出た。朝食の定番、サンドイッチとコーヒーを買ってホームに上がる。向かい側のホームには、一晩かけて走って来たオホーツク10号が雪まみれになって休んでいた。4番線には函館行きスーパー北斗2号、そして姿は見えないが5分後に発車する釧路行きスーパーおおぞらも止まっているはずだ。それに加えて札幌近郊を走るエアポートや、旭川行きのスーパーホワイトアロー等、全面屋根で覆われたホームでは、各列車達の大合唱で賑やかだ。 札幌を出発後すぐにサンドイッチをぱくついた。その後回って来たワゴンサービスでは、名物のカマンベールレアチーズケーキもほうばった。このカマンベールレアチーズケーキはケーキとムンスのあいの子のようなもので、北海道に来た時は必ず食べるというもので、すっかりはまってしまっている。次に「月変わりアイスクリームとして、今月(1月)はストロベリーでございます」という放送につられてそれもほうばる。極め付けには、長万部名物カニ飯弁当も購入して、流石にそれは昼食にまわす。旅が終わってしまうということは寂しいが、自宅へ帰れるという「安堵感」も頭の何処かにあるのだろう。妙に寛いだ気分だ。
 函館から乗り継いだ白鳥が青函トンネルに差し掛かる頃、先程購入した長万部名物カニ飯をほうばった。車内はそれ程混雑もしてなく、空席が目立つ。僕の席の前には、毛糸の帽子を目深にかぶったおばさんが座っていらっしゃる。青森の手前で弁当を購入した後、お姉さんに「足元滑らないようにね」と声をかけて、スゴイ気遣いをされているようだった。青森の手前で進行方向が逆になる為に椅子の向きを逆にするが、前のそのおばさんが座っている椅子に当たり旨く回転出来ない。声をかけて見たが反応がない。やれやれ困ったなと思っているといきなり「Exquse me What you means」と達者な英語で返って来た。あれ、この人さっき日本語で喋っていたのだが。しかも片言ではなく、普通に、返答に迷ってウズウズしていると、そばにいた乗客が身振り手振りで手助けしてくれて、ここは一応「Thank you very much」とお礼を言った。すると「You well come.」と返って来て一件落着。青森駅ではかなりの乗客があった。するとさっきのそのおばさん、前の方へつかつかと歩いて行かれて英語で何か文句でも言うような口調で喋っておられる。あの毛糸の帽子からして、多分八戸付近の方だろうな。しかしさっきの弁当購入以来日本語を喋っていないから、アメリカ人なのだろうかと色々と想像を張り巡らしていた。
 列車は快調なスピードで八戸を目指す。うとうととしながらぼんやり外を眺めているといきなり「お客さん、旅がお好きですか?」と先程のおばさんの声が頭上からした。驚いて「ハイ」と答えるとそのおばさん、笑いながら色々と話して下さった。どうやら東京在住の方で、函館を旅されてこれから上野迄帰るという。3日前から一人旅をされていたらしく、函館の町が妙に気に入って、3月は家族とまた来る。そして既に予約をして来たという気合の入れようだ。私はニューヨークへ25年住み、その間、フランス等のヨーロッパを回り、中国にもいった事があるという、英語は勿論、フランス語もぺらぺら。中国語もご存知の様子。挨拶程度なら四ヶ国語OKというパワフルなおばさんである。厄介なお客がいると相手を脅かす為に英語で話すという、そうすれば逆にトラブルにならないとの事。恐れ入る裏技かもしれない。話していると良い人だと分ったが、列車は八戸へ到着した。僕は1号車、そのおばさんは4号車の指定席だったので、その場で別れた。
 東北新幹線は快調な足取りで南下して行く。仙台を過ぎた時だった。先程のおばさんがやって来て、何と天然水をくれたのだ。貰いっぱなしにするとこっちの気がすまないので、何かないかと荷物を見てみると食べていないチョコレートが残っていた。
4号車迄だとそれ程距離もないので、すかさずそれを取り出してそのおばさんの元へ行った。「ダンケシェーン」とドイツ語で返って来た。そして更にヨーグルトのような飲み物まで下さったのだ。笑いながら別れたが、お返しが出来たので何となくホッとした。自分の席に戻り窓の外を見ると、関東平野に沈みかけた夕日が美しかった。
 下車した瞬間、暖かいと感じたのは東京駅だった。ここからはもう通いなれた道で半分は帰って来たも同然である。東海道・山陽新幹線のホームの端からふと上を見上げると、林立するビル群からは少しクールに光る室内灯が降り注ぐ。日本の経済を支えている人達が働く場では、既に残業に入る時間帯だろうか。そのお膝元から出発する新幹線を見て一気に現実の世界へ戻された。
 寒い時に寒い場所へ行く。これがやはり僕にとっての旅情であろう。北海道は夏が美しいとよく言うが、どうしても冬になれば北へ足が向いてしまう。オロロン街道の反対側、オホーツク海岸沿いもバスがあるという事は地図で確認している。今度は底を辿ってみたいなと思いつつ、このレポートを終わらせて頂きます。長らくのお付き合い有難うございました。では失礼致します。


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