廃線跡をたどる Part 2
by トワイライトエクスプレス


冬こそ北海道(1)


 MLの皆さんこんにちは。広島のトワイライトエクスプレスでございます。早いもので北海道から帰って1週間経ち、ようやく投稿出来る状態迄こぎつけましたので、報告をさせて頂きます。今回の目的は廃線跡を辿る、パート2ということで、稚内から天北線・興浜北線・興浜南線・名寄線を経由して遠軽迄のコースと、冬の釧網線を見るといった感じのもので、夜行列車を含めて4泊4日。自分で言うのも何ですが充実した計画の下、行ってこれたと思っています。

〜通い慣れた道〜
 1月20日(土)。今回は大寒の頃の北海道を体験したかったとこでこの日を選んだ。当初大寒は23日前後だと思っていたが、どうやら20日が大寒だったようだ。
しかしそんなことは特には気にせず、とにかく真冬に北海道を歩いてみたかっただけだ。流石に9回目ともなると函館迄はもう通いなれた道となっている。しかし夜行列車はいつの時代もファンの心をくすぶる物があり、今回も岡山からサンライズ瀬戸のB寝台シングル(個室)を押えておいた。今回は拘りというものがあり、サンライズ瀬戸の14号車のB寝台ということで、乗務員交代やら、ホームの端で繰り広げられる様々な光景が見られるかなと思い切符を買う時に希望したらすんなりと取れた。普段行かない所迄足を運ぶが、岡山駅12番線はこんなに長かったものか。他の在来線ホームはとっくに切れており、本当にこんな所迄電車が伸びて来るのかといった感じだ。殆ど人気のないホームで、いつになったら構内放送が入るのかと思い気や、何か背中に圧迫感を感じて、ふと後を振り向いてみると音もなくサンライズ瀬戸が入線していた。流石に機関車とは違い進入も静かだ。乗って程なく、後続のサンライズ出雲が遅れているとの放送で、9月のあの大雨で45分遅れたことが頭を過ぎる。しかし今回は5分程度と聞き一先ずは安心した。何故かというと、9月に乗車した時は45分遅れていたのにも関わらず、東京到着はたったの12分に迄回復していたからだ。「発車します」との放送がある訳でもなく、軽いショックを感じたらいつの間にかホームから離れていた。下段の部屋だった為か、ちょっとした速度でも妙に速く感じた。煌びやかなネオンが暫く車窓をなでて、程なく鉄橋を渡る。この鉄橋を境に郊外へ出たようだ。ところでサンライズの汽笛というものを聞いた事があるだろうか。あのいわゆる夜汽車を思わせるような高い笛のような汽笛ではなく、私鉄電車のような乾いたようなタイフォンの音だ。何だか妙に安っぽくも聞こえた。先頭車だった為か、前方がヘッドライトの光が反射してほのかに明るい。次の停車駅の上郡駅は全部の車両が納まらない為、14号車はホームから外れる。何だかオーバーランのような感覚にも見えた感じで上郡に到着。
すぐに発車。これは寝台特急「出雲」(出雲市〜山陰線経由の東京行き)が廃止になり、その代わりとして鳥取からスーパーいなばが上郡でこのサンライズに接続している為、この駅にも停車するようになった。客車寝台では決して味わう事の出来ない滑らかな走りとスピード感で、夜の東海道線をひたすら走る。
 やはり想像していた通り、5分遅れて岡山駅を発車したものの、定刻に東京に到着。この日はセンター試験だったとこもあり、「合格弁当」という絵馬の形を模った弁当を東京駅で売り出していると出発する数日前にニュースで報じていたのを思い出し、キオスクのおばちゃんに聞いてみたら、新幹線ホームでもあったので早速購入した。試験にかつという意味でのトンカツ、先が見通せるとの事でのレンコン、梅干の代わりに桜咲くという意味での桜。それに大学芋等、演技が良いおかずが勢ぞろいであった。これは昼食に食べるとして……。
 それにしても今年はやはり暖冬なのだろう。普段ならこの時期、仙台以北は完璧な銀世界が展開されるはずだが、雪のゆの字もない。茶色い地肌が何処迄も続き、とうとう盛岡迄来た。冬の旅ではないみたいだ。盛岡以北は流石に山陰にはチラホラと雪があった。しかし山陰になっている部分のみで、ちょっと期待はずれだ。八戸からはお馴染み。485系白鳥3号に乗り換えた。流石にここ迄来ると雪がかなり積もっていた。しかし良い天気で、降る気配等全くなかった。

冬こそ北海道(2)

〜ダブルスーパーで 目指せ最北端!〜
 広島から走ること約17時間。1月21日午後2時前、函館駅に到着した。流石に冷えてはいたものの、良い天気だ。すぐに向かい側に停車中のスーパー北斗は白鳥からのお客さんを迎え入れていた。接続時間は13分と実にスムーズだ。実はこのスムーズなダイヤで稚内迄行けるのには、前回のダイヤ改正で後に乗る札幌発スーパー宗谷3号の発車時間が17:49に変更された為サンライズエクスプレスから東北新幹線。それに白鳥+スーパー北斗とスーパー宗谷を実にスムーズに乗り継ぐ構成が成立したのである。最も長い待ち時間がサンライズエクスプレスから東北新幹線「はやて」への乗り継ぎ時間が28分と最大で、後は15分前後だ。
 定刻の14:13、エンジンの音が高まると函館駅を発車した。すぐに本領発揮。
しかし車窓はいまいち物足りない。本来ならば青空の下に広がる雪原、まるで飛行機が雲の上を飛んでいくような車窓が展開されるはずなのだが、地肌が所々見える。
 北海道の夜は早い。4時半を過ぎると車窓の街灯の色濃さを増し、やがては車内が映し出されるようになる頃南千歳を過ぎた。貫通扉からは大阪行きのトワイライトエクスプレスも撮影出来たし、まーまー満足した時間を過ごせた。

【写真説明】

寝台特急トワイライトエクスプレス。本当はこの列車を撮影する為にこの場所へ立っていました。一瞬のすれ違いでした。

「ホームに雪がないぜ。普通ならばこの時期はガチガチだぜ」とデッキでつぶやく若者の言葉が印象的だった。札幌へ着くと休む間もなくスーパー宗谷3号へ乗り継ぐのである。気動車と聞くとどうしても遅いというイメージを持つが、北海道の気動車は違う。中でも「スーパー○○」と名乗る列車のスピードは魅力的だ。このスーパー宗谷のスピードを位置づけるものとして、先に発車したオホーツク7号、網走行きの走行距離は374.5kmで所要時間5時間28分。一方スーパー宗谷、稚内行きの走行距離は396.2kmと21.7km長いが所要時間は4時間58分と短い。旭川迄は複線という事もあり、持ち前のスピードで駆け抜ける。すれ違う列車もライラックやスーパーホワイトアロー等に加えて、札幌近郊を走る近距離電車等頻繁に車窓を横切る。
 旭川を過ぎると独自の道を歩む訳だが、そのスピードが落ちる事はなかった。これ迄チラホラと見えていた街灯はすっかりなくなり、漆黒の闇の下、ぼんやりと浮かび上がる雪と、時折赤い線を引いたように流れる踏切のランプ。前に列車がいないとわかっていても律儀に作動する信号機。これでこそ安全に走れるのだ。何かを追い求めるかのように闇を突き進んで行く。美幌で上りのスーパー宗谷4号とすれ違った他は、すれ違った列車はなかった。列車を利用する目的は違えど、寝静まった人達は皆稚内を目指して同じレールの上を走っているのだ。
 その静寂さを打ち崩したのは、南稚内到着の放送だった。久し振りに車窓には街灯が流れていた。ここで大半のお客さんが下車しただろう。南稚内から稚内迄は4分で、アンコールのようなものだろう。多少は遅れたものの午後11時前、広島から約26時間。寒空の下へ身を投げ出したのだ。今夜のホテルはかつみ屋という駅に隣接するホテルで、宿泊料金4200円、その上和室と最も寛げるホテルだ。和室が好きな方には是非お勧めのホテルだ。
 とりあえず今日はこの辺にて失礼致します。続きは後日また投稿させて頂きたいと
思います。では失礼致します。

冬こそ北海道(3)

 明けて2日目(正式には3日目)となる1月22日(月)。6時半頃起床して、7時から朝食だろうなと思いフロントの前にある食堂に行ったところ、「素泊まりと聞いていたので用意していませんが」との事。「えぇー?。どういう事ですか?。今から注文することは出来ませんか?」「いやぁー、ちょっと無理ですねぇー。すみません。」というやり取りをした後、仕方なくすぐ横にあるキオスクの立ち食いうどん屋でうどんを食べる。確か昨日宿泊の有無を書く時に、洋食はなくて、和食のみだと聞いていたので、てっきりもう用意されているもんだと信じていただけに、少しショックだった。
 部屋でテレビを見て気分を取り戻し、ホテルを後にした。今日はこれから浜頓別経由の音威子府行きのバスに乗り浜頓別で下車する予定だ。流石に雪は積もっていたが、思った程寒くはなかった。稚内市内を少し走ったところで、早速オホーツク海が車窓に寄り添って離れない。しかし宗谷岬は通らず少し内陸部に入るらしく、暫く走ると内陸部に入った。しかしこれといった印象に残るような高い山はなく、内陸部と言っても小高い丘のような所だ。ここは昔天北線の跡になるのだろう。再びオホーツク海が寄り添うと暫く真っ直ぐの道を走る。一般道ではあるが、高速道路のような感じだ。暖冬の影響だろうか。道路に迄は雪はなく、まるで黒い線でも引いたような感じだ。
 2時間半程で浜頓別に到着すると次は15分の待ち合わせで枝幸行きに乗車した。
このバスの所要時間は約1時間程だ。相変わらずのオホーツク海とその反対側には山科雑木林、或いは広大な原野が代わる代わる現れるといった感じだ。豊浜付近でトンネルがあった。「例の岩盤が落ちたあのトンネルですか」と運転手に尋ねた所、どうやらあれとは違うらしい。しかし結構長いトンネルだった。これが今回バスルートで通った唯一のトンネルだった。1時前に枝幸についた。ここはかつての興浜北線の跡で、当時は「北見枝幸」という駅名があった。ただの枝幸にすると、函館の南部に位置する枝幸と混乱を避ける為かどうかは定かではないが、北見枝幸という名前も、石北本線に北見という所があるので、ちょっと紛らわしくも感じた。
 約15分程の待ち合わせで今度は雄武行きのバスだ。これ迄乗って来たバスは皆貸し切りバスのような前乗り、前降りのもので座席もなかなか良いものだった。

【写真説明】

真っ白いキャンパスの上に黒い線でも引いたような、一見すると高速道路のようにも見えますが実はこれ、一般道なのです。いかにも暖冬ということが一目でお分かり頂けるかと思います。

お年寄りのツアーに紛れ込んだのかと思わせる程のお年寄りに混じり、後の方へちょこんと腰掛けた。列車とは違い網棚も対して大きくないので荷物は横に置いた。景色は相変わらずオホーツク海がべったりと張り付いていた。地図では大まかに書く為に、ずっと海岸線のように見えるけれども、本当にここ迄海岸線が続くとはいかにも北海道らしい。終点に近付くに連れてそのお年寄りのお客さんも徐々に減り、しまいには数人が残る程度になっていた。これも所要時間1時間程で雄武に着いた。ここで次の乗り継ぎ迄約1時間と少しあるのでやっと遅い昼食となる。北海道の日没は早いのかどうかは分らないが、少し日が西に傾きかけていた。国道か県道か分らないが、広い道路を歩いて、「ストレート」という喫茶店を見つけ、そこでラーメンを食べた。しょうゆ味のチャーシュー麺だ。チャーシューが妙に美味しかった。空腹感からも、座るやいなや大盛りを頼んだのは言う迄もない。昼食後、バスの待合室にいたら、近くに住むおばさんが色々と話しかけてくれた。話しかけるというよりも、自分の歩んで来た人生を語るといった感じだ。
 次のバスは3時20発紋別行きで、何処にでも走っていそうな極普通の真ん中から乗るタイプの路線バスだ。

【写真説明】

所によっては地肌が見えない程の積雪量。いくら暖冬とはいえ、流石は北海道だと感じた瞬間でした。

椅子も普通だ。網棚はなくて荷物は横に置く。海側が1人用だったが、荷物があった為2人用に座った。その為に日没を最後迄見る事が出来た。しかしこれも、両方の景色を楽しむ事が出来る結果となり、よしとした。4時半に紋別に着き、次の乗り継ぎ迄50分ある。5時過ぎには外は完全に暗くなっていた。さて次はいよいよラストラン。遠軽迄の1時間20分の乗車となる。完全に夜となった車窓には、街灯らしい街灯はなく、ただ対向車の光が飛び込んで来るだけだった。しかしその間にも小さなバス停は幾つかあり、下車するお客さんもいた。興浜南線の跡は過ぎてここは名寄線の跡になる。全体的に見ても今回はお客さんはそこそこいた。しかしこの区間を鉄道で賄っていくにはやはり難しいのだろうか。一番込んでいたのはやはり枝幸から雄武迄の区間だろう。これで昨年の日本海側(羽幌線)を含む路線を含めて主な所に行ったことになった。
 さてここから再び鉄道の旅となるが、その前に何と外にある立ち食いそば屋を見つけ、雪を踏みしめながらそれを食べた。寒風吹きすさむのと熱い蕎麦は、何か「昔の旅」のような気分がした。

冬こそ北海道(4)

〜トリプルスーパー特急〜
 遠軽からはキハ40で先ずは北見へと向かう。ここは特急で幾度か通った事がある為あえて普通列車を選んだ。途中の峠では止まりそうになりながらも頑張っていたのが印象的だった。
 網走のホテルは駅前にあるビジネス風のホテルだ。翌日の出発は10時1分と昨日よりもゆっくりとしており、しかも今回はちゃんと朝食も予約していたので安心していた。翌朝その予約していた洋食をのんびりと食べた後、ホテルを出た。今日の旅は網走〜釧路間の釧網線普通列車を除くと全て特急での移動となる。しかも全て「スーパー」の名の付くものばかりだ。冬とは思えない程の良い天気の元、広がる雪原は眩しい程だ。釧網線は2000年に乗っているが、その時は5月で今回は冬。ということで今回冬の釧網線を体験してみたく、このルートを選んだ。雑木林の中にある樹木に雪が積もり、クリスマスツリーのようにも見えた。釧網線の車両の座席は前半分が進行方向を向いており、中間部にテーブル付きのボックス席があり、それを境に今度は進行方向とは逆向きの椅子になっている。幸いすぐに降りると仰るお客さんがおられ、譲って下さった。釧路迄の通しで乗ったお客さんはいたかどうかは分らないが、全体的に割合込んでいた。

【写真説明】

釧網線内で行き違った快速「知床」。
この辺はかなり積雪もありました。

今日の昼食も昨日に引き続き昼2時を過ぎることは覚悟していた。しかし今日はお目当ての鰯のほっかぶり寿司を食べることだった。これはスーパーおおぞらの車内での限定販売の弁当だ。去年頂いた列車のワゴンサービスの写真付きのメニュー表で出発前から決め手いた商品だ。釧路では6分の待ち合わせでスーパーおおぞらに乗る。元々釧路は雪が少ないとは聞いていたものの、この日は全くなく、まるで冬の北海道ではないみたいだ。出発して程なく車窓に現れる太平洋も太陽に輝いて実に穏やかだ。
 お目当ての鰯のほっかぶり寿司は2時前に来た。待っただけありその味は忘れられない。鰯のにぎりなのだが、その間に薄い大根が強いてある。少しほろ苦い味だが、もう少し沢山入っていても良かろうにというのが正直な感想である。
 池田、帯広と過ぎ、いよいよ新得を過ぎると狩勝峠に差し掛かる。ここは北海道の屋根と呼ばれている所で、流石に景色が一変した。新得を出た時点で待っていた小雪は吹雪きになり、トンネルとトンネルの間から見える景色は白一色。これぞ冬の北海道だと実感した。すぐ目の前も見えない程の雪にも関わらず、そのスピードを落とす事なしに超えて行く。多分先頭車が雪煙を上げて走って行くダイナミックな走りが、カメラマンの心をゆすぶり、それがまた絵になるのだろう。4号車に乗っており、先頭車の貫通扉から対抗車を撮影しようかなとも思ったが、今日の編成は附属編成を含めて9両繋いでいたのと、少し眠たかったのと、車内で寛ぎたかったという条件が重なり、それはやめたがしっかりと景色を楽しむ事が出来た。雪雲でどす黒く染められた空はそのまま暮れ始め、ちょうど青に染まった頃南千歳に到着した。
 次の乗り換えは函館迄のスーパー北斗。実はこの日の夕食も寿司を狙っていた。これもスーパー北斗の車内限定販売の桜ますずしであり、上記のメニュー表で見て出発前から狙っていた。今度はすぐにありつくことが出来た。木の入れ物にぎっしりと詰められた寿司飯の上には、分厚い桜ますが押してあり、笹の葉で包まれたものだ。新潟にも、鮭の押し寿司と言い似たような商品はあるが、これも僕のお気に入りの一品だ。ただ一口サイズに切られていないのが難点だ。ヘラも入っているが、箸でうまく切り食べた。スーパーおおぞらもスーパー北斗もそこそこの乗車率だ。
 定刻より3分遅れで函館に到着した。さて次はいよいよ本州に渡る。これ迄の流れから行くと、スーパー北斗からの乗り継ぎは「白鳥」なのだがこの時間帯は何故か「スーパー白鳥」に接続している。このスーパー白鳥は元々設定がなく、前回のダイヤ改正から青森行きとして設定されていたのだ。念の為とはいえ指定席を予約していたが実にガラガラ。しかもM車と来ていたので録音をするのには良い条件が揃っていた。4号車では数名の乗客と共に函館駅を発車。木古内でも乗客はなし。9時18分に青函トンネルを突き刺した。9時25分、吉岡海底駅通過。ここはかつてドラえも
ん広場で賑わった場所だが、北海道新幹線開通工事の為これも去年の夏に廃止された。この本抗の向こうには作業抗があり、3年前に歩いた場所だ。薄暗い蛍光灯に浮かび上がり延々と伸びる道には、水の流れる音だけが響いているのかなと想像しながら9時半、中間地点を示す青と緑の蛍光灯が窓に線を引いたように流れた。不気味でも良いからまた歩いて見たいなと想像しながらその6分後、今度は竜飛海底駅を通過した。律儀にも蛍光灯は揃って付いていた。そして何本かの貨物列車とすれ違って9時42分、本州側へ出た。蟹田駅でも反対側のホームからは入れ替わるように貨物列車が出ていった。
 再びローカル色濃い津軽線を辿り残り少ない道を坦々と走ると終点青森も目の前になった。

【写真説明】

夜の青森駅の高架橋上から撮影したスーパー白鳥44号、この車両翌日どうするのでしょうかね。時刻表では青森始発のスーパー白鳥はないので、何処か迄回送されるのでしょうか?。ちょっと勿体無いような気もしていますが……。

青森駅ではこれから札幌へ向けて旅立つという急行「はまなす」がお客さんを迎えていた。薄暗いホームに浮かび上がる濃い青のブルーの車体と赤いED79のカラーリングは、昔の国鉄時代、寝台車がブームだった頃を思い出させてくれた。そんな一場面だった。
 さて翌日はいよいよ旅の最終日、由利高原鉄道の旅の様子を後日報告させて頂きます。ではこの辺で失礼致します。

冬こそ北海道(5)

 1月24日(水) いよいよ今日は旅の最終日である。小雪が舞う青森市内は昨夜とうって変わって銀世界となっていた。4時半に起床。昨夜寝たのが12時前だったのでほんの仮眠程度だ。ホテルでは午前8時にウェルカムドリンクのサービスがあったそうだが、当然断り、5時半にホテルを出た。駅前のファミマ(ファミリーマート)でコーヒーを買おうと思い入ったら、棚に陳列してあった各種サンドイッチに目がくらみ、ついつい衝動買いしてしまった。ハムサンドとツナサンド、それに卵サンドだ。本当は昨日のスーパー北斗の中で一口サイズのクロワッサンを買っていたのだが、日持ちがするので後回しにする。
 青森駅のホームには既に乗車するいなほ8号は入線しており、震えながら待つ必要はない。一方隣のホームには前夜に札幌を経ち、一夜を走りぬいて来た急行「はまなす」がその役目を終え入庫の準備万端のようで、車内も真っ暗で扉も既に閉まっていた。ちょうどその頃、昨夜青森駅で見送った札幌行きのはまなすは今頃は南千歳辺りをラストスパートしている頃だろう。そのはまなすが6時7分に札幌到着で、こちらも青森を出るのが6時7分発。つまり僕がホテルに滞在していた時間はそのはまなすの所要時間よりも短い事になる。
 いなほの暖かい車内に救われると何となくホッとした。定刻に出発してみてもまだ外は真っ暗。何か昨日の続きのような気さえした。乗客も疎らで車内販売は秋田から乗務すると言うのでさっき買った朝食は正解だった。サンドイッチとコーヒーでシャキッと目覚めた頃、ほんのりと夜が明け始め、景色の輪郭もはっきりと浮き上がって来た。低く垂れ込めた黒い雪雲はいかにも北国らしい。7時51分に東能代に到着した際、上野からの寝台特急「あけぼの」とすれ違った。上野発青森行きの唯一の寝台特急であり、昔のような「終着駅」という役割は終えたようだ。この「青森行き」という言葉の響きは何か心に響く。演歌歌手石川さゆりの津軽海峡冬景色の冒頭の歌詞「上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中……」というのが妙に懐かしい。
その夜行列車も今は減便され、後は北海道迄行く北斗星2本と臨時特急カシオペア。
それに金沢行きの北陸と能登を残すのみだから、夜の上野駅も寂しい限りだ。雲の切れ間から太陽が顔を覗かせるようになると秋田も間もなくだ。(続きます。)

冬こそ北海道(6)

 8時39分。秋田へ到着した。広島迄通しで切符を買っていたので矢島迄の切符を購入し、駅弁も購入して701系の普通電車で羽後本荘迄行く。昼食の弁当は秋田名物の牛飯で、すき焼き風に煮込んだ肉をご飯の上に敷き詰めた、ボリュームありそうなものだ。雪は全くなく、本当に冬なのかと思う程だ。ロングシートの車内はそれ程込み合う事もなく、朝の通勤・通学のラッシュは一段落したのだろう。単線ではあるがかなりのスピードで駆け抜けて行く。本当は先程のいなほ8号でも羽後本荘へ行けるのだが、乗り継ぎ列車迄1時間以上の待ち時間を余儀なくされるので、この普通電車に乗り換えることにした。その方が駅弁も購入出来るし、時間が有効に使えると思ったが、それが正解だった。
 羽後本荘駅には既に由利高原鉄道列車が停車していた。由利高原鉄道の愛称は「鳥海さんろく線」というネーミングで、その車両にも雪をかぶった鳥海山が描かれていた。

【写真説明】

旅行最終日に撮影した由利高原鉄道には、雪をかぶった鳥海山があしらわれていました


この路線とは全く関係ない話だが、昔国鉄時代、上野発青森行きの昼行特急「鳥海」というのがあり、その電車はいつの間にか寝台車になり、1997年3月21日で廃止。あけぼのがその後を引き継ぎ現在に至っている。
 車内はロングシートだったが、固定式のテーブルも備え付けてあった。しかし向かい合って食事をしたり会議をしたりといった感じではないので、いったい何の為のテーブルなのかはわからなかった。車内灯もレトロな豆電球。トンネルでもあればその夜の疑似体験でも出来るのだが……。小高い丘を登って、鳥海山の方向に向かっているようだが、その日の鳥海山は車両の絵柄のような雪はかぶっていなかった。本来ならばこの地域も一面の銀世界なのだろうと想像しつつ。複数のMLに投稿しているので、個人名は避けるが、途中「久保田・川辺」という駅があった。これは長崎本線久保田駅と、奥羽本線川部駅と、同じ名前の駅が存在する。ただ川部については漢字は違うが名前は同じである。終点に着く前、唯一のトンネルを発見した。それ程長くはなかったものの、途中にカーブがある為出口は見えない。そのレトロな豆電球の光がいっそう引き立ち、車内はオレンジ色に包まれた。ほんの一瞬、夜の疑似体験をした。そして程なく終点矢島に到着した。始発駅では全然なかったのに、終点矢島付近は、雪こそ降っていなかったものの、一面の銀世界であった。標高が高いのかどうかは分らないが。ログハウス風の駅舎にはお土産やが1つ入るだけで、後は何もなし、すぐに折り返す事になる。帰りの列車はまた別の車両で、今度は極々普通のボックス席の車両で、車両には絵柄も入ってなかった。再び羽後本荘迄戻ると701系の電車に乗り込み、秋田へ戻り、2時5分発こまち20号にて東京へ戻った。東京駅では駅構内にあるカレー屋でハンバーグカレーを食べた後、のぞみ51号にて広島へ戻り、11時半、帰宅の戸についた。多くの鉄/仲間との文字のやり取りを通してだが、その鉄道への知識には頭が下がる思いだ。普通ならば「今どの辺ですか」というやり取りだろうけど、「今、どの列車の中だと思いますが」とか「後残すところこまちとのぞみのみですね」と言うような内容で、見事に僕の居場所を突き止めたようで、恐れ入ったが楽しかった。まるで一緒に旅をしているようだった。長々と話をしてしまいましたが、この辺で旅の報告を終わらせて頂きます。ここ迄お付き合いして下った皆さん、有難うございました。では失礼致します。


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